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■ 亘理大雄寺を訪ねて
2008年 07月 06日 |
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宮城県亘理町にある「大雄寺」(だいおうじ)
亘理氏の居城であった小堤城の跡地に建った寺で、元は「雄山寺」というお寺だったそうである。
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山門が見えてきた。文政年間のモノといわれており、実に趣きのあるシブイ山門だ。

伊達政宗公の腹心として活躍した武将「伊達成実」(だてしげざね)はこの寺に眠っている。
勇武無双、英毅大略ありと言われ、毛虫の前立の兜を愛用していたことでも有名である。
(後ずさりをしないという毛虫の習性にあやかったと言われている)
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人取橋、摺上原・・・伊達の重要な戦では多大な軍功を挙げ、奥州にその名を轟かし、
小田原参陣の際は、留守居役として家中の動揺を最小限に抑えることに徹した。
成実公と言えば、武のイメージが強い武将であるが、実はバランス感覚に優れた武将であることは意外と知られていない。
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(明治30年改築の本堂)

慶長3年に事件は突然起きた。成実公が高野山に出奔してしまう事件である。
何故出奔してしまったのか?事の真相は未だに明らかになっていないが、有力な説として「格付け」の件が浮上する。
つまり石川氏を第一席(一門の主席)にしたのに対して、成実公が抗議の意味で出奔した・・・という説である。

政宗公が石川氏を第一席にしたのは、秀吉の奥州仕置の一件で石川氏が所領を没収されてしまった負い目があるからと言われている。
また、「成実だったら全てワカッテくれるハズ・・・」という長年の信頼関係への期待感もあったのだろう。

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(NHK大河ドラマ 独眼竜政宗 第12回 輝宗無残より)

成実公の出奔に政宗公は相当のショックを受けたらしく、複数の家臣に帰参の説得をさせた記述が「貞山公記録」に見える。

思えば政宗公は家督を継いで以来、修羅の如き人生を歩んできたと言える。
畠山義継の人質に取られた父親を泣く泣く鉄砲で撃ち殺し、謀反の罪で弟の小次郎を斬り、母親を最上の実家に追放した。
そんな家庭的に恵まれ無かった政宗公は、年齢の一つ下の成実公に対して本当の弟のように接していた。

その成実公が叛旗を翻し、高野山に出奔してしまうのである。
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成実公の御霊屋の周りには、散り桜の花びらが舞っていた・・・

1600年(慶長5年)、浪人の身の成実公であったが、政宗公からの説得に応え、ついに伊達家に戻ることとなる。
そして成実公は、伊達家の防衛ラインでもある重要な地「亘理」を所領に与えられることとなった。

ここに、14代270年続く亘理伊達氏は誕生したのである。
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亘理の地は「水損干損」の地と言われてきた。北を流れる阿武隈川は、昔から氾濫や洪水を繰り返してきたからだ。
成実公は辛抱強く、治水・用水を進めるとともに積極的に新田の開発を進めていった。
亘理の所領は驚く事に成実公治世中、実に3倍強になったのである。

世は幕藩体制へ移り変わっていた時期である。
成実公もこれからは武力ではなく、治世の時代だと敏感に感じていたのであろう。
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成実公は伊達家の中で、並ぶ者の無い存在になっていった。

伊達家と共に戦国の世を歩んできた猛者たちは次々と世を去り、政宗公は重要議案を先ず成実公に相談し決裁した。
2代忠宗公は経験豊富な成実公を重用し、名代として幕府への使者に抜擢した。


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(NHK大河ドラマ 独眼竜政宗 第13回 人取橋より)

幕府への使者として、将軍家光に謁見した時の話し。
家光から奥州での軍談を所望され、成実公は人取橋の合戦を語ったのである。

仙道諸氏・佐竹連合軍の猛攻に伊達本陣は崩壊寸前・・・
そこに討ち死覚悟の成実公が敵勢の横に突撃し、本陣崩壊の危機を救った戦いの事である。
それを聞いた家光は「比類無いほどの天晴れな武士」と褒め称えた。
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戦国・治世の世を生き抜いてきた成実公は、正保3年亘理にて79歳の生涯を閉じた。
病床にありながら、最後まで伊達家の事を案じていたと言う。

後に亘理伊達家に危機が訪れる。跡継ぎが無く、断絶の危機である。
伊達本家は成実公の数々の功績を考慮し、領地を減ずる事無く養子を認めた。
成実公は死しても亘理伊達家を守ったのである。

成実公の生涯そのものが、「伊達者」だったと思う。
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